out of control  

  


   27

 窓が開く音がして、ふわりと優しい風が頬を撫でた。
 髪が揺れる。
 不意に誰かの話し声が聞こえたような気がして目を開けようとしたんだが、なぜか力が入らなかった。
 誰かそばにいるのか? なんだか辺りが慌しいような……。
 知ってるはずの声なのに、眠くて判別がつかない。
 仕方がない。もう一回寝ちまおう。
 そう思ったところで大きな手が前髪をかき上げるように俺の頭を撫でて、驚いた拍子に目が開いた。

「ネサラ…!」
「……?」

 とたん、視界に飛び込んできたのはティバーンの顔だ。
 なんでティバーンがいるんだ?

「無理して声を出すな。水は飲めるか?」

 呼ぼうとしたのに声が出ない。代わりに乾いた咳が出て、なだめるように俺の胸元を叩いたティバーンに吸呑を咥えさせられて、俺はなんとか一口水を飲み込んだ。

「起きられるか?」

 訊かれて、小さく頷く。起きられるかどうかじゃなくて、起きたいんだ。
 だが、なぜか萎えきった腕にも腰にも力が入らなくて、すぐにそれがわかったんだろう。ティバーンの逞しい腕が俺をゆっくりと抱き起こしてくれた。

「俺がわかるか…?」

 とりあえず、背もたれにもたせ掛けてくれるだけでいいのに、ティバーンに支えられたままってのが気に入らない。
 しかも不安そうな様子でそんなことを訊かれて、俺はわけがわからなくて目を瞬いた。

「ティ…バーン……。寝ぼけてるのか?」

 苦労してそう言うと、やけに真剣な顔で俺を見つめるティバーンの顔がだんだんうれしそうな笑顔になって、次いで分厚い胸元に思い切り抱きしめられた。
 ちょ…苦しいだろ!!

「おっと、悪ぃ」

 羽交い絞めにされてもがくこともできない俺の代わりに誰かが抗議したらしいな。誰かに言いながらティバーンがやっと離れたあとから、また抱きつかれた。
 今度はティバーンじゃない。ぶつかるような勢いだったが、衝撃は軽い。俺の頬を受け止めたのは柔らかい胸だ。まるで金色の紗のように俺の視界がいい匂いのする金髪に包まれて、頭に何度も口づけられて、暖かな雫が落ちて……俺はようやくそれがリアーネだと気がついた。

「リ、リアーネ?」

 驚いて声を掛けると、ぱっと俺の頭を離す。涙でぐしゃぐしゃになったリアーネがはじけるような笑顔を浮かべて俺の顔を見つめ、何回も頷いた。
 そこでやっと俺は気がついたんだ。さっきからリアーネがまったくしゃべらないことに。
 驚いて心臓が冷えたような気がした。

「おまえ、どうして話さない!? まさかなにか…!」
「ちょっと喉を痛めたんだ。今声を出すと本格的に喉がイカれちまうかも知れねえから、しばらく大事を取ってるだけだぜ」

 焦って訊く俺にリアーネは大丈夫だと仕草で伝えるが、信じられない。代わりにティバーンが答えてくれた。

「本当に? 治るのか?」
「治るとも。ラフィエルとロライゼ様と……セフェランのお墨付きだぜ。なあ?」

 心配でまだ涙で濡れてるリアーネの頬を拭ってやりながら訊くと、ティバーンだけじゃなくリアーネもこくこく頷いてもう一回笑った。
 なんの翳りもない笑顔だ。これなら本当に心配要らないみたいだな。良かった。

「リアーネ? どこへ行くんだ?」

 ほっとして軽い身体に腕を回したのに、リアーネが珍しく自分から離れて窓の外を指して出て行くものだからびっくりして呼び止めたが、リアーネはにこにこうれしそうな笑顔のまま唇だけで俺になにか言ってそのまま飛んでいった。
 笑ったのはティバーンだ。

「なんだよ?」
「いやなに、こっちのことだ。じいさんとリュシオン、それからラフィエルでも呼びに行ったんだろうよ。あいつらにもおまえが目を覚ましたことを知らせてやらねえとな。みんな心配したんだぜ」
「心配……?」
「ああ」

 参ったな。まだ本調子じゃないんだろう。頭がぼんやりしている。
 もう一口水を飲んで俺を支えたままのティバーンの肩口に頭をもたせかけて辺りを見て、ようやく俺はセリノスの自分の部屋の寝台に寝ていたことがわかった。
 ぱっと見てわからなかったのは、俺がめったにこの部屋で寝たことがなかったからだ。
 え? じゃあ、ここはセリノスなのか…?
 それがわかった瞬間、全てのことを思い出した。
 偵察に行った渓谷で、俺は歪んで形を失って澱のように固まっていた鷺の憎悪の思念を浴びたんだ。それだけじゃない。意識の中に潜り込まれた。
 鷺ってのは素直だ。悪く言えば堪え性がない。
 それからの俺の行動は鷺にのっとられたって言うよりも、いつもなら感情に制御を掛けられるところで止められなかった感じだな。
 ティバーンにあんな真似をしてデインを出て、それから……そうだ。鷺たちが「負」の気の塊のようになっちまってたのを、とにかくなんとかしたくて……。
 守ろうと思ったんだ。あの時、なにもできなかったから。今度こそ助けたいって思ったのに、俺は………。

「ネサラ?」

 俺の顔色が変わったことに気がついたんだろう。ティバーンが心配した様子で急に離れた俺の顔を覗きこむ。
 俺を見つけた鷹の男たちが、俺に掛かってきた。
 ただ掛かってきただけなら俺はおとなしく殺されるつもりだったのに、俺の血を見て興奮した二人の暴力が妙な方向に行ってしまって、どうしてもそれが嫌で……。
 必死に意識を逸らしていたのに、俺の中に入り込んでいた鷺の魔力が暴走した。
 聴こえたのは狂った「勇武」の旋律だ。それからのことは断片的な記憶でしかないが、あれは…夢じゃない?
 乱れた息を必死に堪えていると、ティバーンが背中を撫でて何度も「落ち着け」と言ってくれる。
 落ち着けるかよ…! 俺はヤナフを、アイクたちを傷つけた。ティバーンもだ。
 それなのにどうして…!?

「ティバーン……どうして俺は生きてるんだ?」

 背中を撫でていたティバーンの手が止まる。
 ぎこちなく顔を上げると、ティバーンが俺を黙って見ていた。

「ティバーン…!」
「ネサラ、鷺の血はまだ残ってるのか?」

 どうしてティバーンがそのことを…!?
 驚いてなにも言えずにいると、ティバーンは真剣な表情で俺の肩に手を掛けて続けた。

「鷺の血がなりそこないの薬だってのはもうわかってる。セフェランが教えてくれた。セフェランは見つけた分は全て処分したと言ってたんだが、どこで見つけた?」
「違う。俺は薬を飲んだんじゃない。その…鷺のことは、ほかには?」
「とりあえず『負』に飲み込まれて存在が歪んだ鷺たちの意識ってのか? そういうのが集まってこんな事態を引き起こしたってのもわかってるぜ」

 せめてティバーンたちには教えたくなかったのに、そこまでわかってるならしょうがないな。
 深い息をつくと、俺は鷺の血を飲んだわけじゃなくて、鷺たちの意識に飲み込まれて狂った『勇武』の旋律を聴いてなりそこないになったこと、それから少し考えて、グリトネアで鷺のことを知った話を白状した。
 セフェランが事情を話したんだったら、もう俺が黙ってる意味もないしな。

「なるほどな。おまえは鷺の血を強く引く分、呪歌に対する感受性も強い。それも原因なんだろうよ」

 あのまま放っておくと、鷺とティバーンたちとの戦いになる。
 そうなったら、どっちも傷つく。
 なんとか血を流させずに済ませたかったんだ。
 俺が見つけたのは絶望と怒りで巨大にわだかまった鷺たちの意識の塊で、戦っても肉体はないから血を流すわけじゃないのに、それでも嫌だった。
 結局俺が取り込まれて面倒を掛けちまったみたいで、そこは情けないとしか言いようがないが……。

「それより、俺の質問にまだ答えてないぞ。どうして俺は生きてる?」

 顔を覆って深い息をついて訊いたけど、ティバーンはなにも答えない。
 長い沈黙のあとで、ティバーンは俺の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でるように背中に下ろしながら言った。

「まだ死にたいか?」

 やけに真剣な声に驚いて顔を上げると、なんとも言えない表情をしていたティバーンが笑って首を振る。

「いや……いい。おまえの命を救ったのはセフェランだ。それからラフィエルとリュシオン、リアーネだな。俺にはどうしようもなかった」
「セフェランが…? でも、確かにあの傷は、」

 致命傷だったはずなのに。
 そう言おうとして俺は言えなかった。
 なんとなく、ティバーンに言っちゃいけないような気がしたから。
 最後の最後、俺の意識は半分ぐらい戻ってた。
 墜とされる。それがわかっていても、この男を墜とさず死ぬのは我慢ならない。
 そう思って相打ちに持ち込もうとして、負けた。
 今でも身体にティバーンの鉤爪の感触が残ってる気がする。

「おまえ、あれから二週間も寝たままだったんだぜ。どこか痛まねえか?」

 訊かれて俺は首をかしげた。

「ネサラ?」
「あ…いや、痛くはない。その、本当にどこも」

 これは嘘じゃない。鴉王になってからこっち、いつも身体のどこかが痛かったのが普通だったのに、気がついてみると本当に久しぶりに俺の身体から全ての痛みが消えていた。
 大きいのから小さなものまで骨折だの打ち身だの捻挫だのをリカバーで治すことを繰り返していたからな。回復の杖は使い過ぎると自分の治癒能力が落ちる。俺の場合はそれに加えて感覚まで馬鹿になったままだったはずなんだが。
 正直、落ち着かない気分だ。

「本当だな?」
「疑うようなことじゃないだろ」

 あんたの方はどうなんだ?
 そう訊こうと思ったのに、先に大きな息をついたティバーンにじっと見つめられて、俺はなにも言えなかった。
 先に視線をそらしたが、空気が妙に張り詰めてくる。
 ……居心地が悪い。
 薄い掛け布団を握って顔を背けると、ティバーンが立ち上がった気配がした。

「そら。じいさんたちが来たぜ」
「ぼっちゃま!」
「ネサラ!」

 ティバーンが言い終わる前にテラスの窓が開いて、ロライゼ様とリアーネ、ニアルチとリュシオンに助けられながらラフィエルまで飛び込んできた。
 ニアルチにはおいおい泣かれ、リュシオンには怒られ、ロライゼ様にはにこにこと頭を撫でられ、ラフィエルにはしみじみと抱きしめられて、リアーネはそんな俺たちの様子を見てただうれしそうに笑っていた。
 あの鷺たちを助けるためにロライゼ様が禁呪を謡って鷺王の地位を降りたことも、そして後釜をリュシオンが継いでることにも驚いたが、改めて考えてみると確かにこれからの時代にはリュシオンが鷺王ってのは相応しい気がする。
 外交の場面では力強い味方になってくれるだろうな。もちろん、清廉潔白なリュシオンのこと。俺が小賢しい真似をしようものなら、その場で烈火の如く俺を叱るだろうが。
 だが、改めて詳しい話を聞いて、俺は本気で頭を抱えた。
 ――もう二度と仲間を傷つけたりはしない。
 そう心に誓っておきながら、なんて様だ…!
 なにが困るって、どうやら被害者の全員があっさりと俺を赦してる辺りがな……。お人好しにもほどがあるだろう!?

「時間はかかるそうだがヤナフの翼も治るし、グレイル傭兵団とスクリミルたちは国に帰ったが、そんなに気になるなら様子を見に行きゃいいさ」

 地の底まで落ち込んだ俺にティバーンは気楽なことを言いやがるが、そんな問題じゃない。ましてスクリミルは他種族の王なんだぞ?
 さあ、どうやって詫びを入れるか……。
 参ったな。俺個人のことでセリノスの国庫に損害は与えられない。かといってキルヴァスに隠した金を使うのもな。あれは災害などの緊急時用に取っておきたい。

「ネサラ…スクリミルなら怒ってはいませんよ。もちろん、アイクたちも。お詫びなんてこだわったりしないでしょう」
「まさかおまえ、そんなことを気にしていたのか!? アイクたちはそんな器の小さな連中じゃないし、スクリミルなんておまえの今わの際にどれだけ泣いてくれたか…! 謝るよりも、むしろ礼を言うべきだぞ!!」

 だが、そんな俺の悩みなんてお見通しだな。ラフィエルの一言にリュシオンが怒り出し、リアーネも俺の手を握ってこくこくと頷く。
 こいつらが言うならそうなんだろうが、正直、そんなだからラグズがベオクに舐められるんじゃないかと思うね。
 ………そうならないようにするのが俺の仕事ってことだろうが。

「ネサラ。私にはもう鷺としての力はないから、君の気持ちを正確に把握できているかどうかはわからない。でも、別れを惜しんで流された涙に込められた想いを疑ってはいけないよ」

 それでもなにも言わずに目を伏せた俺に、ロライゼ様はそう言って微笑んだ。
 鷺としての力がなくなったってのがどういうことなのか、俺には想像もできない。でも、きっと辛いんだろう。
 一番辛い思いをしてるだろうロライゼ様に慰められて、そんな自分が情けなくもなった。

「まあ、そういうこった。それからラグズを専門に診るベオクの医者なんだが、いろいろな技術を持ってるようだぜ。おまえが情報を集めたいんじゃないかと思ったんでな。しばらくセリノスに留まるように手配してある」
「……勉強するには丁度良い機会だしな」
「はっきりしねえ返事だな。なにか問題でもあるのか?」

 少なくとも技術に関してはないな。ほかは、単に俺の気持ちの問題だ。

「あ? なんだよ?」
「リアーネ、私はまだ話が終ってないぞ!」
「おや、私も駄目なのかね?」

 そう思って首を横に振ると、リアーネがじっと俺の顔を見てからティバーンとリュシオン、ロライゼ様の背中をぐいぐいと押して部屋を出てくれた。
 ぽかんとする間もなく、笑ったラフィエルが寝台の脇の椅子に腰掛け、ニアルチはお湯を入れた桶を持ってきて俺の夜着に手を掛ける。
 あぁ、ニアルチがごそごそとなにかしていたと思ったら、清拭か。

「拭くだけか? 髪を洗いたい」
「起きてすぐでは貧血を起こすかも知れません。調子を見て、夜には洗ってさしあげますから、もう少しだけ辛抱なさいませ」
「そんなにヤワじゃないってのに。ったく……」

 うんざりとため息をついた俺の身体から手際よく夜着が引き抜かれる。
 下着はつけてなかったから、そのまま裸になって寝台に腰を掛けて身体中好きなようにニアルチに拭かせていると、ラフィエルが立ち上がってお茶を用意してくれた。
 淡い桃色の乾燥させたハーブの花を入れたお茶は、小さなころによくセリノスで飲んだものだ。

「ありがとう。……心配を掛けたようだな」
「いいんですよ。あなたが帰って来てくれた。それだけで充分です」
「………」
「ネサラ?」

 白くて優しい手にそっと頬に触れられ、髪を撫でられて、俺は鈍く痛む頭を抱えた。

「ぼっちゃま!」

 小さな声を漏らして両手で頭を抱えると、ニアルチも俺の翼を撫でる。
 俺は…ティバーンを殺そうとした……。
 自分の中に湧き上がった恐ろしい衝動を覚えてる。それは、あのティバーンと戦えることに対する歓喜だった。
 俺だって鴉王である以前に、鳥翼族の戦士の一人だ。
 ………本気で、戦ってみたかった。それは本当だけど、でも……!
 いつもなら理路整然とならぶ思考がばらばらで苦しい。

「ネサラ、心配する必要はありません。戦いを欲すること、それ自体はラグズとしての本能でしょう? ティバーンだってあなたと本気で戦うことを一度も考えたことがないわけではないのですよ」
「そうですぞ。ぼっちゃまは本当にお強うございました。このじいの誇りですじゃ!」

 二人がそんな風に言うのは、俺を慰めるためだ。それがわかっているから、そうあっさりと納得はできなかった。
 それに、自分が浴びたティバーンの血の匂いも、暖かさも覚えてるんだ。

「ティバーンの受けた傷はもう治療しました。大丈夫ですよ」

 そりゃ、ティバーンは俺を怒ったりはしないだろうよ。
 でも、自分で立てた誓いを破ったことが辛い。

「それより、あとできちんと話をしなくてはいけません。あなたがティバーンを傷つけたことが辛いように、ティバーンは命を掛けて守るべき鳥翼の民であるあなたの命を奪わなくてはならなかった。わかるでしょう?」

 だが、くよくよと落ち込んでる時間はなかった。
 俯いて片手で目を覆った俺の頭を撫でながら言ったラフィエルの口調が少しだけ厳しい。
 びっくりして顔を上げると、ラフィエルはその俺の気持ちを読んだんだな。少しだけ悪戯っぽい表情をして言ったのだった。

「ネサラ。あなたのことももちろん大切ですが、私はティバーンの友だちですからね?」
「もしかして、怒ってるのか?」

 情けないが、ラフィエルに怒られるのは嫌だ。どうせ隠したって筒抜けだからな。正直にそんな気持ちを込めて訊いてみると、ラフィエルは笑って俺の額に額を押し付けて答えた。

「はい。少しだけですが」
「ラフィエル……」
「あなたを永遠に失ったと思った瞬間は、皆が本当に辛かった。もちろんティバーンも。自分を粗末にするのはあなたの悪いくせです。ネサラ、今度こんなことがあったら私は……」

 最後には俺を胸元に抱えたまま苦しそうに言われて、俺は慌ててラフィエルを抱き返した。相変わらず良い匂いのする髪が俺を包んでくすぐったかったが、今はそれどころじゃない。

「わかった。約束する。すまない。だからラフィエル……」

 泣かないでくれ。心の中で真摯に伝えながら、俺はこれで自分が死ぬんだとわかった時、そう言えばみんながそばにいてくれたような気がしたことを思いだした。
 いや、実はもうほとんど見えてなかったんでね。しょうがない。
 ただティバーンが俺の手を握ってくれてたことだけは覚えてる。ずいぶんぼやけちまってるが、見えるうちに、ちゃんとティバーンの顔を見ておこう。見られて良かったと思ったことも。
 頼みたいことは山ほどあったし、ラフィエルたちがいるなら伝えてもらえば良かったんだろうけど、ああいう時ってのは思考がまったくまとまらないもんなんだな。
 そこから先の記憶はない。まあ、当然といえば当然なんだろうが。

「ぼっちゃま。着替えはどうなさいますか? もう少し横になるなら夜着にいたしますよ。着替えは一応運ばせましたがまだ本調子ではないでしょうし、起きていられそうでしたらこちらの長衣(ローブ)を召しませ」
「そうだな。……起きる」

 やっとラフィエルが顔を上げてまた笑ってくれたあとで、ニアルチが俺の腕を黒い長衣(ローブ)の袖に通した。

「ヤナフはどこだ?」
「兵舎の自室におりますよ。いらっしゃいますか?」
「当然だ」

 前髪をかき上げながら言うと、ニアルチは「やれやれ」といった様子で肩を竦め、俺の髪を結んで室内履きのように柔らかな絹地の靴を俺の足に履かせる。
 立ち上がる時だけ二人の手を借りたが、立ってみると意外に平気だった。
 二週間も寝たきりだったわりには筋肉が落ちてないな。翼も大丈夫そうだ。
 自分ではせいぜい二、三日寝込んだ時ぐらいの感じか?
 まあいいか。とりあえず眩暈も治まったし、ヤナフには詫びを入れに行かなくちゃならない。

「良かった。起きられたんだな」
「少しふらついてはいるようだけれど、大丈夫そうだね」

 ラフィエルが扉を開けると、まずリアーネがうれしそうに飛び込んできて俺の腕にじゃれついて、リュシオンとロライゼ様もほっとしたようにしみじみと俺を見る。
 ティバーンは組んでいた腕を解いて廊下の壁から身を起こした。

「ヤナフは兵舎だと聞いたが」
「ああ。行くか?」
「リュシオン、リアーネ……父上も。ネサラが疲れるといけませんから、私たちはまたあとで戻りましょう。台所に今夜はネサラの夕食もお願いしたいと伝えなくては」
「……私はいっしょに行きたいのですが、そうですね。わかりました。鴉の料理人もずっと心配していましたから、きっと喜ぶでしょうね」
「そうだね。ネサラ、無理をしないようになさい」

 ティバーンが俺の肩を抱いたのを見て、ラフィエルが三人を促して離れる。特にリュシオンとリアーネの二人がくっついてくると、絶対に俺を庇うからな。ラフィエルの心遣いは有難い。

「ぼっちゃま。私はこの間に寝具を取り替えますから。鳥翼王、ぼっちゃまをどうかお願いしますぞ」
「おう、任せとけ」

 自業自得なんだろうが、ニアルチの輪を掛けた過保護ぶりは頭が痛いな。
 ったく、あいつはいつまで俺を子ども扱いするつもりかね?

「ティバーン……なにがおかしい?」
「いや、べつに。飛べるか?」
「誰に訊いてる?」

 テラスに出ると、ずいぶん暖かくなった風に驚かされた。
 鷺たちの目のような、セリノスの豊かな緑が眩しい。花まで咲き始めてるんだな。

「どうかしたか?」
「いや……春になってるなと思って」
「そりゃ冬の長いデインから戻って二週間も寝てりゃそう思うかもな。行くぞ」

 しみじみ眺める間もなく、俺の腕を掴んだティバーンが飛ぶ。まったく痛みがなくなったってのも困りものだな。
 俺も慌てて羽ばたいたんだが、最初は勢いがつきすぎて姿勢を崩しそうになった。
 結局支えられて飛ばなきゃならない辺りは情けないの一言だ。

「ネサラ様…!よくぞご無事で!!」
「心配してたんですよ!」

 ティバーンに助けられながら飛ぶ姿が目立ったんだろう。まずシーカーが、次いで事務方の鷹の男が寄って来た。

「おまえたちにも心配をかけたな。まだしばらくは本調子には戻りそうにない。その間のことは頼むぞ」
「もちろんです!!」
「まっかせといてください! ね!? 王!」

 やけにうれしそうに張り切る二人に苦笑して、俺たちはそのままセリノスの南側に造られた鷹の集落を目指した。
 さすがにこの辺りに来ると俺に厳しい目を向ける鷹が増えるかと思ったが、意外にそうでもないな。

「これは鳥翼王、あやかりたいもんですな!」
「もう女房がいるくせになにを言ってやがる。きっちり仕事しとけよ。愛想を尽かされんようにな」
「もちろんでさ!」

 若い戦士に飛行訓練をさせている壮年の鷹には、むしろにやけ面で冷やかされた。
 男を連れていてあやかるもなにもないと思うんだがな。もしかして鷹も思ったより同性同士でそういう仲になる連中が多いのか?

「ネサラ、ヤナフの部屋が見えたぜ」

 学校の時間だからな。子どもはいない。
 代わりに女や年寄りが俺たちを見つけて気安く笑顔を向けてくるのに応えながら、俺はティバーンの手に導かれるまま木造の兵舎のテラスに降りた。最上階に当たる三階だ。
 ヤナフなら王宮内の部屋か個人の家を持っていても良さそうなものなのに、欲がないんだな。

「ここだ。どうした?」
「いや…べつに」

 大きな窓を開けて中に入ると、いかにも独身の若い男の集団が暮らしているらしい匂いがした。
 一言で言えば、汗臭い。それに酒の匂いもする。
 手巾で鼻と口を覆いたくなったが、平気そうなティバーンを見ていると笑われそうな気がするからやめる。
 掃除は……いい加減だな。兵舎なんだから怪我人が休むこともあるだろうに、衛生状態がいい加減なのはよろしくない。
 ティバーンは鷹と鴉の若い兵をいっしょに暮らせるようにと考えてこの大きな兵舎を建てたようだが、こうして見るとまだまだ難しそうだな。
 同じ兵舎で寝起きをさせたら、鴉がひたすら掃除に明け暮れそうだ。
 三階はベテランの戦士の部屋が集まってるらしい。すれ違う戦士はいずれも精悍で、態度こそ人懐こいのから堅苦しいのまでさまざまだったが、いずれも見ただけでなかなかの技量を持っていることがわかるような者ばかりだった。

「この部屋だ」
「………」

 ティバーンが足を止めたのは一番奥の角部屋だ。なにやら扉越しに女性の賑やかな声が聞こえる。
 ヤナフはああ見えていい歳の大人だからな。そんな相手が来てるなら、邪魔になるかも知れないと迷ったんだが、ティバーンは気にせず扉を開けた。

「じゃあ約束! 今度はあたしがあんたの子を産むからね!」
「ちょっと、わたしが先よ。この前の時だって戦争でだめだったんだからッ」
「ねえヤナフ、ほかにどこか痛いところはない?」

 ……………なんだ?
 必要最低限の家具だけのこざっぱりとした部屋の中に、大柄な鷹の女が三人もいた。しかも、どの女も争うようにヤナフに絡み付いている。

「わかった! わかったからあとにしろって! ったく……ありゃ? これは王! 鴉王までかよ!」
「あぁん、もう、いいところだったのにッ」
「どこがよ! …あら? ホント、鴉王さまじゃない」
「え? まあ、やだ。本物?」

 左右から窒息しそうなほどの質量を誇る胸のふくらみに埋もれながら、ヤナフは両脇の女たちのくびれた腰を抱えて引き剥がした。
 淡い茶色だったりとび色だったり頭髪や翼の色はさまざまだが、はっきりとした顔立ちもむき出しになった肌の面積も多い大柄な女たちの視線が一斉に俺に向いて、なぜか後ずさりたくなる。
 恐いわけじゃないぞ。そうじゃないが、なんだ? この女たちの方がティバーンより危険な気がしたんだ。

「ったく、相変わらずだなあ。おまえたち、本気でヤナフを壊す気か?」
「うふん、そんな負担は掛けないわよ。ねえ?」
「もちろん。だっていっつも王がヤナフを連れ回すせいで、あたしたちは滅多に会えないんだからッ。こんな時ぐらいはいいじゃないの」
「そうよねえ」

 だんだん、わかってきた。
 そうか。この女たちはヤナフのことを……。

「んん? どうしたよ、鴉王?」
「いや、その……。おまえに謝らなくてはと思って来たんだ。翼の具合は? 飛べるのか?」

 きゃあきゃあとうるさい女性陣の相手はティバーンに任せて、俺は回りこむようにしてヤナフが身を起こした寝台に寄り、様子を見た。
 背中の包帯はまだ取れないんだな。それに、翼も。
 動かせないように添え木をあててあるのは、骨が折れていた証拠だ。翼を折ると飛べなくなる者も少なくない。
 ティバーンの片腕がまさかそんなことになったら……。そう思うと心配で、俺はヤナフの翼に触れることさえできなかった。

「バカ、謝る必要なんかねえよ。なんだ、心配してくれたのか?」
「そんなわけにはいかない。ヤナフ……本当に、」

 平然と笑っているが、痛かっただろう。
 俺は面白半分に翼を半分切断されたことがあるからな。飛べなくなるかも知れない不安がどれほど大きいか、俺はたぶん誰よりも知ってる。
 だから心から頭を下げようとしたのに、目の前に体格に比べて大きなヤナフの手が突き出されて止められた。
 驚いて目を瞬くと、急に怒ったような表情になったヤナフと目が合う。
 どういう意味だ? 困って首をかしげると、にやりと大将であるティバーンによく似た男っぽい笑みを浮かべたヤナフが突き出した手を握り、拳で軽く俺の腹を叩いて言ったのだった。

「きっつい一発だったぜ。さすがは鴉王だ! この空でおれの王とタメ張れんのは、間違いなくあんただけだな」
「ヤナフ……」
「だからぁ、そんな泣きそうな顔で見るなって! 心配しなくてもまた飛べるようになるんだからよ。あんたが憎まれ口叩かなかったら調子が狂うんだっての。ったく! わかったら謝るなよ? そいつァ戦士に対する侮辱だ。マジで怒るからな!?」
「わ、わかった」
「よーし、よし。わかりゃいいんだよ。そのうち模擬戦でもやろうぜ。このおれを墜としたんだ。あんたとやりたがってる鷹がごまんといるからな」

 心からうれしそうな笑顔で言われたのはいいが、内容は物騒極まりない。俺が黙ってるとティバーンも笑って「そりゃいいな」なんて腕を組んだ。

「互いの戦い方を知る上で、王の戦い方ほどわかりやすいものはねえ。おまえも本調子になったらうちの若い連中に稽古をつけてやってくれ」
「それは…でも、怪我をさせたら不味いだろ?」

 鷹は直情で熱くなり過ぎる。加減できればいいが、中にはヤナフのように実力のあるヤツもいるだろう。
 俺はもともと手加減は上手い方じゃない。いなせるような攻撃ならいいが、そうじゃなければ問題じゃないか?
 そう思って渋ったんだが、今度はティバーンとヤナフだけじゃなく、女性陣にまで笑われた。

「いやだあ、もう。カワイイこと言うねえ!」
「笑っちゃ悪いわよ」

 あっけに取られたところで寄って来たティバーンが、俺の顔を見て言う。

「戦士だぜ? 怪我をしてなんぼだろうが。だからそこまで気にすんな」
「……俺は鴉の兵をあんたに鍛えて欲しいとは思わないぞ?」

 自分でやる分にはいいが。
 いつまでも笑ってる男っぽい顔を見上げて答えると、ティバーンはいっそう浮かべた笑みを深くして俺の背中を叩いた。

「そいつァ残念だ。やる気のあるヤツはいつでも歓迎するつもりだぜ」
「はン、鷹じゃあるまいし、そんな血の気の多い鴉はいないだろ」
「えー? そうでもないぜ? 最近、やられてもやられても諦めねえ熱血な鴉が増えたってウルキも言ってたし」
「そうなのか?」
「おう。また外に出る前に一回ぐらい様子を見てやったらどうだ?」

 それは……そうだな。その方が良いかも知れない。
 鷹に引きずられて冷静さを欠くことになったら大事(おおごと)だ。
 顎に手を当てて考えていると、ティバーンがヤナフの翼の具合を見て安心したのか、俺の肩を抱いて言った。

「とりあえずヤナフは心配ないってわかっただろ? 戻るぞ」
「あら、もう帰るの?」
「さびしいわ。王は帰っても鴉王だけでも置いていってくれたらいいのに〜」

 とんでもないことを言う女たちだな。
 さすがにティバーンに対してそれはないんじゃないかと思ってなにか言おうと思ったんだが、その前に呆れた顔をしたヤナフが最後まで絡み付いていた鷹の女の頭を起こしながら口を開いた。

「よせよ、おまえら。鴉王まで兄弟にするつもりかあ?」
「うふふ、試してみたいわよねえ?」
「当然!」
「どう? 鴉王サマ、優しくするわよ?」

 兄弟? なんで俺が兄弟なんだ?
 なんのことだかわからなくて首をかしげてティバーンを見上げたが、ティバーンは頭を抱えて仕草でなんでもねえと俺に伝えてきた。

「ったく、おまえらに任せたらロクなことにならねえだろうが。ほら、行こうぜ」
「え? いいのか?」
「もう用は済んだろ?」
「それはまあ……」

 やけに急いだティバーンに引きずられるように部屋を出た背中から、ヤナフと女たちの見送りの声が掛けられる。
 応える間もないな。ずかずかとテラスに向かうティバーンに引きずられて、そのままの勢いで空に飛ばれた。
 もうふらついたりはしないが、心配性なティバーンはまだ俺の腕を離そうとはしない。

「おい、飛びにくいだろ」
「おまえが寝てる間はほとんどリアーネたちがべったりだったんだ。俺にも少しはおまえを寄越せ」
「寄越せって…俺はものじゃないんだがね」

 周りから向けられる視線が痛くて小さな声で言うと、ティバーンはなにも言わずにそのまま飛んでまた俺の部屋に戻った。

「ぼっちゃま、大丈夫でしたか? ご気分などは悪くなっておりませんかな?」
「だから、その『ぼっちゃま』はよせ。どこも悪くない」

 テラスに下りると、早速ニアルチがお茶の仕度をしていそいそと俺を出迎える。

「さあさあ、鳥翼王様もこちらへ」
「ありがとうよ。……なんだ、ラフィエルとニケだけか?」

 部屋に入ってソファに腰を下ろすと、二人が顔を見合わせて笑った。
 そう言えば、ニケの顔を見るのも久しぶりだ。
 俺が立つのを仕草で制してそばに来てくれたニケが隣に座り、しみじみと俺の顔を覗きこむ。

「まだ屈託はあるようだが、顔色は良くなった。鴉王よ、どこか具合の悪いところはないか?」
「ない。もしかして心配を掛けたか? すまなかったな」
「水臭いことを。私にとってそなたは息子のようなものだ。もう少し甘えて欲しいものだがな」

 そう言って頬に口づけるニケの仕草は確かに母親のものなんだろうが、ニケにこんなことをされるとなぜか俺は食いつかれる寸前の獲物のような気分になる。
 やっぱりニケから漂う血の匂いや気配のせいだろうな。ガリアの獣牙族もそうだが、肉を生で食べたり、焼いても中は真っ赤なぐらいのものが主食だから仕方がないんだろうが。
 笑ったニケが離れてかわりにラフィエルが隣に座り、俺はティバーンと向かい合ってニアルチが運んだミントのお茶を飲んだ。

「それにしても、珍しいな」

 なにがだ?
 薄いカップの縁に唇をつけて目を向けると、ティバーンはバターの良い匂いがする小粒の焼き菓子をまとめて口に放り込みながら答える。

「リュシオンとリアーネだよ。いつもあんなにべったりおまえにくっついてたのに」
「それは……俺の目が覚めたからじゃないのか?」
「関係ねえだろ。今までだってそうじゃねえか」

 そんなことを言われても、理由なんてわからない。そう思って首をかしげると、ラフィエルがくすくす笑い出した。

「ラフィエル?」
「あぁ…すみません。そう言えば、そうでしたね。あなたから痛みが消えたからですよ。本当は一人の時間も持ちたいでしょう?」
「……どういう意味だ?」

 微笑むラフィエルに尋ねるティバーンの声が低くなる。くそ、余計なことを訊いちまった。
 そう思ったが、ここまで聞かれたらもう遅い。

「ネサラは自分でも意識できないほど、ずっと身体中のあちこちが痛かったのです。杖を使わなければ傷も治らなくなっていましたし……。少しの傷なら調合薬でごまかしてしまいましたからね。あの子たちはネサラの傷を癒したくてそばにいたのですよ」

 もちろん、一番の理由はいっしょにいたかったからですが。そう付け加えて微笑むラフィエルとは対照的に、ティバーンの表情は険しかった。
 ……そんな顔をさせたくないから黙ってたってのに、ラフィエルのヤツ! 俺が黙って睨んでも痛くもないようで、ラフィエルは笑って小さな子どもにするように俺の肩にニアルチから受け取ったショールを掛けた。

「ネサラ、おまえ――」
「なんでもない。もう済んだことだ」
「済んだなんてことがあるか! 本当にもうどこも痛くないんだろうな!?」
「つ…ッ」
「そら見ろ! どこだ!?」

 立ち上がったティバーンに腕を掴まれて詰め寄られて声が漏れただけだ。
 こ、この馬鹿力め!
 怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、それよりもティバーンの怒りをこんな間近で浴びたラフィエルが心配だ。

「は、離せ! 痛いのは身体じゃな…」
「鳥翼王様! いくら鳥翼王様でもぼっちゃまに対しての無体は赦しませぬぞ!!」

 あげく、でかい手に長衣(ローブ)をひんむかれそうになってニアルチが飛び上がってこっちに来たが、そんなことでこの男が諦めるかよ。
 いよいよどうしようかと思ったところで、俺たちの間に入ってくれたのはニケだった。

「落ち着け、鳥翼王。王たるものが見苦しい」

 低く落ち着いた声で言ったニケは恐ろしい視線を向けられても、まったく堪えた様子はない。まあ当然と言えば当然だな。
 ニケから見りゃ、俺はもちろんティバーンだってまだ王としちゃ若造なんだろうさ。

「どう見ても今鴉王を痛めつけているのはそなただろう。これ以上わが夫に心痛を与えるならば、この場でそなたの身体に直接わからせてやることも厭わんが?」

 最後には獣の気配をたぎらせて言ったニケに、やっと我に返ったようだな。
 ティバーンはほとんど吊るされるような状態になって腰を浮かせていた俺にやっと気がついた様子で手を離し、落ちるところを受け止めて座らせてから大きなため息をついた。

「ああ…そうだった。ラフィエル、すまん」
「……ええ。まったく君は昔から…目の前のことにばかり気が行くのですから……」
「ラフィエル、大丈夫か?」

 俺の腕も痛むが、それよりもラフィエルの方が心配だ。
 慌てて隣のラフィエルの顔を覗き込むと、思ったとおり顔色が蒼白になっていた。
 それでも俺を見ると笑ってなんでもないと首を振る。くそ、ティバーンめ。俺のことはともかく、ラフィエルがいる時ぐらいは気をつけてもらいたいもんだ。

「痣になっちまったな」
「これぐらい、なんでもない」
「ぼっちゃま…! 後ほど調合薬をお持ちしますゆえ」
「よせ、大げさな」
「ですが…!」

 反省したらしいティバーンが指の形に痣が浮かんだ俺の腕を見てしょげたところで、ニアルチが追い討ちを掛ける。
 わざとやってるんだよな。これは。ったく、食えないじじいめ。
 キルヴァス王時代ならせいぜい利用するが、今はべつにティバーンからなにか毟り取らなくちゃならない理由もないのに。

「ニアルチ、もう薬は必要ありませんよ。ちゃんと治ります。さっきも言ったでしょう?」
「は……」
「ふむ。よくわからんが、鷺の力か杖がなくば傷が治らないような身体のままでは不便だっただろう。良かったな、鴉王」

 ラフィエルに言われたニアルチがまだ心配そうに俺を見て、ニケにも笑って付け加えられる。
 えーと……そうか。もうどこも痛くなくなったってことは、そういうことなのか?

「本当に治るのか?」
「治りますよ。リュシオンとリアーネがちゃんと離れてこの子の気持ちを優先しているのがその証拠です」
「そうか……」

 だから、なんであんたが痛そうな顔をするんだ?
 そう言いたかったが、なんだか俺を見る金褐色の目を今は見返す気持ちになれなくて、俺は黙って冷めたハーブティを飲み干した。

「良かった…本当に良うございましたなあ。ぼっちゃま…!」
「しばらくは感覚の変わった身体に戸惑うかも知れませんが、それが本来の健康体であるということですからね。では、私もそろそろお暇いたしましょう。女王……」
「うむ。そうだな。鴉王も疲れたようだ。では鳥翼王。積もる話もあるだろうが、ほどほどにな」

 泣き出したニアルチに乱された長衣(ローブ)の胸元を直されながら腕をさすっていると、二人は代わる代わる俺の頭に口づけて部屋を出て行った。
 残ったのはティバーンだけだ。
 よりにもよってティバーンだけを残して行ったあの二人には恨み言の一つも言いたくなる。

「ティバーン」

 ったく、しょうがないな。
 前髪をかき上げて呼ぶと、ようやくティバーンが俺の横に座った。でかい図体を縮めやがって。………似合わねえんだよ。

「俺はあんたが思うほどやわじゃないぜ。わかってるか?」
「………ああ」
「もうどこも痛くない。ラフィエルがああ言うんだから、これからは少々傷を受けても自力でちゃんと治せるはずだ」

 一度死んじまって生き返ったからかも知れないが、まあ事実は事実なんだから受け入れざるを得ない。
 深い息をついてそう言うと、ティバーンはしばらく黙ってからなんだかぎこちなく笑った。
 笑って、言ったんだ。声の調子は明るいのに、複雑そうな様子で。

「おまえは強い。もう忘れやしねえよ。そう思ってるんだがな」
「……なんだ?」
「いや。やっぱりいきなり起きて無理をさせちまったんだな。熱っぽいぜ。今日はもう寝ろ」
「ぼっちゃま!」

 大きな手で俺の首の後ろに触れてそう言ったティバーンが立ち上がる。
 慌てたニアルチが寝台の準備を始めるが、それよりも俺はなんだかはっきりしないティバーンの態度が気になった。

「夕食は運ばせる。ニアルチ、俺が言う必要はねえだろうが、頼むぜ」
「ははッ、もちろんですじゃ! さあ、ぼっちゃま。本当に熱が出てきたようですぞ。お休みくだされ」

 確かにいつもよりは身体が熱いが、嫌な感じはしない。
 とは言え、二人とも信じないだろうな。
 結局このあと俺はうるさいニアルチに逆らう気力もなくなって寝台に入り、ただぼんやりと時間を潰すしかなかった。
 溜まった書類は気になるし、やることがないなら本でも読みたい。だがどれもニアルチが赦さなかったんだ。
 書類は……まあ、仕方ないかもな。俺が休んでいる間に、頼れる先がないってことで危機感を持ったんだろうさ。鷹の事務方が大きく成長したと言われたら、邪魔はしたくない。
 もちろん、あとからでも検閲はするがね。いくら熱意があろうと使い物にならない書類を外国に出すわけには行かないからな。
 それでも夕食の前には退屈が絶頂になった俺のため息の繰り返しを聞いて気の毒に思ったのか、ウルキが来てくれて気分がましになった。

「鴉王…邪魔をする」
「今ばかりは誰だって歓迎するさ。……なんだ、その荷物は?」

 暗くなってきてランプに火を入れさせたところで現われたウルキは、両手に大小の箱といくつかの書状を抱えていた。

「鴉王が倒れたことが伝わって…各国から届けられた見舞いだ」
「なんだと?」

 どうしてそれが先に俺に伝わって来ないんだ!?
 がばりと起き上がった俺の剣幕でニアルチが事情を察したんだろう。ばたばたと飛んできて、「も、申し訳ありませぬ! それらはぼっちゃまの具合がもう少しよくなってからで良いと鳥翼王様が――」と平身低頭する。
 ティバーン…! あいつ、こんな大事なことを!

「見せろ」
「鴉王が本調子になれば…直筆で礼状を書くだろうと王は言っていた…。そう怒るな」
「怒るさ。当然だろう? クリミアの女王夫妻と…こっちはフェール伯か。ベグニオン…サナキだな。ガリア、ゴルドア…こっちがデイン。ん? アイクからってことは、どうせ処理したのはセネリオ辺りだな」
「必要なら鷹の急使を出そう」

 ウルキは無表情でそう言うが、これで内心は結構焦ってることはもうわかってる。だからそれ以上は文句を言わずにニアルチを呼びつけると、俺は見目麗しく包装されたクリミアからの二つの包みと、ベグニオンのサナキからの包みを開けさせた。

「おや、これは素晴らしいものですな」
「……オルゴールか。ふん、まあ人形を贈りつけられなかっただけでもマシだな。脚の金も良いものを使ってやがる」
「ぼっちゃま、中になにか入っておりますぞ」
「ん?」

 フェール伯から届いたのは、色とりどりの彩色を施した花かごの形をした陶器製のオルゴールだった。花の部分が蓋になってるんだな。
 ニアルチに言われて蓋を開けると、中は見事な黒い別珍を張った宝石箱になっていた。そこに転がっていたのは俺の親指の爪ほどもある大粒の真珠だ。へえ、こっちもなかなかの品じゃないか。

「リアーネの首飾りにでもするか。飾るだけでも綺麗だけどな」
「こちらは…小さな箱ですな」
「クリミア女王からのものか?」

 女王からのものは、それ自体も深い色味の飾り細工の小箱だったが、中に入っていたものは本当に洒落た品だった。
 絹の赤いリボンのついた、手のひらに収まる象牙製のチケットだ。

「それはなんだ…?」
「ウルキは知らないのか。これはクリミアの王立劇場にある王族専用のボックス席の無期限使用を保障するチケットだ。ベグニオンもレベルが高いが、やっぱりこういったものはクリミアには敵わない。これは価値があるな」

 問題は観劇に使えるだけの休みが取れるかどうかだが、これがあればいつでも立ち寄りさえすれば演目を観ることができる。それも王族のための特等席でだぞ? 欲しい者には本当に垂涎の品だった。
 サナキから贈られたのは、極上の絹を編んだものに色とりどりの硝子と貝の虹色の部分で作った小さな玉をあしらった髪紐と、見ただけでつい笑いたくなるような飴細工の小鳥だった。これは可愛らしくて食べるのがもったいないというより可哀想になるな。
 もちろん、それぞれが丁寧な手紙つきだ。形式だけじゃない。それぞれの文面には心から俺の安否を気に掛ける気持ちがこもっていることがわかる。
 デインとガリア、ゴルドアからは書状のみだったが、それはこちらも同様だった。身体が良くなったら是非一度来て欲しい。文面は違えど書かれた一言は俺の胸を暖かくしてくれた。
 特にデインからの書状には俺が出した策で事態がどう動いたか、あれからのことがつぶさに記されていて興味深かった。これを書いたのは意外なことにサザだ。本人は見舞いの手紙をついでにつけるだけのつもり程度の気持ちだったようだが、こいつはセンスがある。磨けば光るんじゃないか?
 そう言えばレオナルドもペレアスの手伝いをしていたな。あそこの文官は頼りにならないと思っていたが、若い世代が育ちそうなのは良いことだ。
 ……とりあえず、次の赴任先はデインだな。そう思いながら一通ずつニアルチに丁寧にしまわせると、俺はクッションを重ねたヘッドボードに背中を預けて大きな息をついた。

「返書を書きたいところだが……できれば仕事に戻る前に直接訪ねて回れたらいいな」
「それぐらいの余裕はあるだろう。…私からも口添えしよう」
「そうか?」

 意外な気がして問い返すが、ウルキはもう一度頷く。
 ……こいつとこれだけ話してるのも不思議なもんだな。だが、なんと言うか居心地が良い。こいつの醸す空気が落ち着いてるせいかも知れないが、熱いのが常の鷹にしてはいつも安定していて、話しやすいんだ。

「なんだ?」

 そう思いながらしみじみとウルキを見ていると、その視線を不思議に思ったんだろう。ウルキがニアルチの淹れたお茶を受け取りながら俺を見る。

「いや。そう言えば、俺はおまえにも怪我をさせなかったかと思ってな」
「…………」

 沈黙されるってことは、そういうことだろうな。
 ヤナフたちのことにばかり頭が行っていたのは申し訳なかった。
 そう思ってどう詫びを切り出そうかと思ったが、ウルキはニアルチを手伝って贈り物の箱をテーブルに運んでから言った。

「生きているからもういい…。互いに…そうだろう?」

 感情がわかりにくいウルキだが、その言葉に込められた真心は伝わる。だから俺はなにも言えなかった。

「リゾーのことも、リゾーに加担した連中のことも……もう決着はついている。リゾーは処刑こそ免れたが、次はない。一生、監視つきで生きることになった。加担した連中については、一生ということはないかも知れないが……当分は監視される」
「……もう一人の鷹の男は?」
「それを決めるのはおまえだ」

 ウルキに言われて、俺は黙って天井を仰いだ。
 寝台にいるからな。こうしたって見えるのは天蓋の幕だけだ。
 ……そのまま黙っていると、ウルキも静かに息をついて続ける。

「鴉王。王は傷ついた…。私は王の『耳』だ。もしおまえが生きていることを少しでも後悔しているなら…そのことを忘れないで欲しい……」

 心臓がはねた。
 不味いな。こいつの耳には届いただろう。
 俺に向けられた視線が少し厳しいものになる。
 だが俺はなにも気がつかないふりをして「わかった」と答えた。
 自分でも自分の気持ちがはっきりしないんだ。これはしょうがないさ。

「私から言えることはそれだけだ…。邪魔をした」
「いや、いい気晴らしになった。ありがとう」
「…………」

 これは本音だ。だから立ち上がったウルキに笑顔で言うと、ウルキも少し笑って来た時と同じように、静かに部屋を出て行った。

「ぼっちゃま……」
「少し眠る。夕食には起こせ」
「……はい」

 これは嘘だ。散々眠って起きたばかりなのに、眠れるわけがない。
 でもニアルチはなにも言わずに頷き、寝台に潜り込んだ俺の布団を整えてそっと離れた。
 生きていることを…少しでも後悔してるなら、か……。
 してないはずがないだろ?
 俺はあの瞬間、うれしかった。なにより、安心したんだ。
 どんな形であれ、これで鴉たちへの恨みを俺が背負えるんじゃないかって。できればあいつらの負い目もなにもかも、俺が持って行きたかった。
 なぜなら俺は「鴉王」だからだ。
 初代から今まで…すべての鴉王が叶えられなかったたった一つの願い。鴉たちの幸せを、誓約を逃れた俺が叶えなくてはいけなかった。
 鷹の民は誤解してるだろう。でも……。鴉たちの中に、鷹に対する憎悪なんてない。
 フェニキスに対する望郷の念だってない。
 獣牙族の「猫」と「虎」と同じ。兄弟同然の種族じゃないか。
 仲違いなんて、本当はしない方が良いに決まってる。鷹との暮らしを知らない若い連中はともかく、ニアルチのように年を重ねた者たちは皆心の中にそんな思いがあったはずだ。
 俺は、それを知っていた。
 やっと、もう一度鷹と生きられる。軋轢はあっても、今度は互いに対等な関係を作れるように、その下地として鴉たちの長所を生かせるように教育や訓練を重ねてきて……全ての憎悪を引き受けた俺の死で、完成するんじゃないかって思っていた。
 でも…違うな。それだけじゃない。
 そこまで考えて、俺は自分の中にあるどす黒い感情を無視できなくなって笑った。
 声も出さない、乾いた笑いだ。
 そうじゃないだろ………。
 ずるいな、俺は。
 どうせ死ぬなら、ティバーンの手に掛かりたかっただけだ。
 相打ちを狙った時も本気だった。
 もちろん、戦士として純粋に本気で戦いたかったってのが一番大きい理由ではあるさ。
 でも俺は…あいつの手に掛かることで、消えない傷痕になりたかった。
 そうすればこの先の長い時間、俺のことを完全に忘れるなんてできないだろう?
 そんな卑怯な自分が信じられない。
 部屋の外が賑やかになった。どうやらリュシオンとリアーネが来たみたいだ。

「ぼっちゃま、起きられそうですか?」
「……頭が痛い。寝たと言ってくれ」

 ニアルチが遠慮がちに訊くが、俺はあながち嘘じゃない気分で答えて起き上がりもしなかった。
 とてもじゃないが、こんな気分であの二人には会えない。心を閉ざすのは得意だが、今はそれも面倒なぐらい疲れた気分だった。
 かなり粘られてるらしい。ニアルチが苦労して部屋に二人を入れないよう言っている声が聞こえて、俺は頭まで布団を引き上げて両耳をを塞いだ。
 いくらこんなことをしたって自分の中から聴こえてくる声から逃げることは出来ない。それを誰よりも知っていながら。






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